真実とか事実とか錯覚とか
この前の記事で書いたモンハン エクスプロアにも無事に登録できて楽しんでやってます(^^)僕が中3の頃に周りの友達がPSPでやってて楽しそうだな〜とは思ってたのだが、乗り遅れたてなかなかやるきっかけを見いだせず、実はモンハンやるのは初めてです(^^;
まぁそんなこんなとゲームなんかしつつ遊んでますが、今日の夕飯食べてる時に出た話で今後意識していきたいなと思うことがあったので備忘録的に。。。
「芸術は人の錯覚を利用する」
これは斎藤秀雄 講義録に書いてある言葉らしく(一緒に飲んでた人が言ってたのですが、正確に引用してるわけではないのでお許しを・・)、例えばクレッシェンドすべきところで平坦に音量を変えずに演奏すると逆にデクレッシェンドしているように聞こえたり、テンポが早くなるべきとこでテンポを変えないと逆にゆっくりに聞こえるなど、ということです。
これって人が潜在的に抱いている真実というものにものすごく関連があると思う。じゃあ上で言うクレッシェンドすべきとことかテンポが早くなるべきとこってなんだろう?元々その曲を熟知していてって言うのなら話は別だけど、知らない曲でもそういった現象はあるように思う。じゃあなんでクレッシェンドすべき、と思うのか。これが潜在的に抱いている真実なんだろうなと。
以前読んだ広告コピーってこう書くんだ!読本という本にも僕の中では通ずることが書かれてて、
そりゃそうだ・・・事実
そういえばそうだね・・・真実
そんなのわかんない・・・錯覚
この内、真実の反応が出てくるのが良いコピーだと。 つまり普段は意識していなくとも潜在的に(個人的な?)真実はわかっていて、そこを掘り出されて意識された際に快感、好感、共感を覚える。
先ほどの音楽においてもおそらく同様で潜在的に真実の部分で次はこうくるってのが意識していなくともあるからなのかなと。じゃあ単純にすべて真実に沿うようにすると良いというわけでもないみたいで、潜在的な真実と外から感受する事実とのズレが錯覚を生み、それがスパイスとなり人を魅了する。
元々、音楽もそもそも小節や拍、和音っていうある意味、制約的なものはなかったわけで、そこから古典派音楽へ移っていく中でがっちりと制約ができた。そこにちょっとした錯覚を加えたのがロマン派だというのが今回の解釈で、当然人によって好みは色々だろうが、ロマン派がなんだかんだ相対的に好まれてるのはこういったことに因るのかな。
その後やはり芸術だからか、多少の変化を加えていくという流れはあり、印象派、現代音楽へとつながっていき、初期のより制約のないものへと戻っていく。ただそれは真実を呼び起こさないので大衆は魅了されず、広まらない。真実のない錯覚でしかないのかと。
同様のことを現代のコンテンツについて書いてたのが、コンテンツの秘密(川上量生)。実際にこれで取り上げてた例では無いですが、
こんなのよく見たことないですか?黄金比だとかどうこうで作られたデザイン。
では、ここで問いかけです。「円を一つ思い浮かべて下さい」
おそらく歪みの一切ないキレイな円を思い浮かべましたね?いくらコンパスでキレイに書こうと、パソコンで書こうと、紙や鉛筆、スクリーンの解像度の限界で本当に歪みのない円はかけないです。つまり頭に浮かべた完璧な円はこれまで誰も事実として見たことがないはずです。なのにどうして思い浮かべれるの?というとそれが真実だからだと思います。だから真実で構成されているデザインは人を魅了するのです。
きっとこの真実・事実・錯覚は芸術だけでなく、いたるところにあると思う。潜在的な真実は何で、どの程度の錯覚が程よく気持ち良いのか、そういったことを今後意識していきたいなと。
じゃあゲームの真実はなんだろう?錯覚はどのくらいが良いのだろう?モンハンやりながら考えます笑